青空と彼女の存在理由






   雲の影が、透けて見える、あの、彼女の姿を、
   私は今も、見上げた青空に、思い出す…





「なんかね、薄々気付いてはいたんだけどさ、
 やばいかなと思ったのは、一週間前くらいなんだけど。」


呆然と見つめる私に、彼女は何故か照れたように、
そして、少し困ったように、小さく笑いながら話した。

その、背景の透けた姿と、実際よりも遠くから聞こえるかのような小さな声に、
背筋の寒くなるような、何ともいえない不安を感じたのを覚えている。



「………やっぱり、目立っちゃうかな?
 朝、鏡見てさ、顔色悪いなぁとか思ったら、
 後ろの壁紙の色なんだよね。参ったよ。
 まぁ、血管とか内臓とかが透けて見えるんじゃなくて良かったよ。
 そんなのになったら、歩くスプラッタだもん。」

彼女は、無邪気に笑った。
私は、不安を隠せていなかったと思う。
というか、隠すことを思いつく余裕すらなかった。

「あ、でもね。透けてるのは色とかだけみたいで、
 物に触ったりとかは、普通にできるんだよ。」


ほら。と言って、私の手を取った彼女の手は、
確かにしっかりと、触れる感触はあったけれど、
私の憶えていた、それまでの彼女の手よりも、
心なしか、冷たいように思えた。

周囲の景色の透ける顔で、彼女は私に、いつもと同じに笑った。
私はつられて、彼女に、いつもとよく似た、苦笑を返した。





「このまま、透明人間になれちゃったりしてね。」

静かな店内で向かい側の席に座っていても、
彼女の声は、少し聞き取りにくい。
遠くから響くような、心の内で甦る過去のような声。


お気に入りのカフェのココアを手に満足そうな彼女を前に、
私の心は複雑だった。

人目を気にして反対した私に、
「だから、一緒に来てって言ってるんじゃない。」
と、からかうように言って、彼女は押し切った。

幸い、込み合うような時間でもなく、
数人に訝しむ様な目で見られた程度で、あまり目立ちはしなかった。
彼女も、その辺りは心得ていたのだろう。
なにせ、買い物とお茶に出かけることが、
ここ数日の彼女の、切なる野望だったらしいのだから。
彼女にしてみれば綿密な計画に、私を巻き込んだのだろうと思う。

もっとも、その計画を事前に言わなかったのは、
計画のずぼらさを、私に指摘されないためだろうけれど。

彼女はゆっくりと、大切そうに、
ココアも、この時間も、たっぷり楽しんだようだった。





「何か、心当たりとかは?」

上機嫌な彼女の背に、不安を帯びた声で疑問をかける。

一人じゃやっぱり、人目が怖くて出かけられなかったんだよね。
と、彼女は言ったけれど、私といたからといって、
人目を引かなかったわけでは、もちろんなく…
落ち着きのない私に同情して、楽しみにしていた買い物は、
必要最低限だけで済ませ、彼女は早々に切り上げてくれた。

外の風や日の光さえ、一週間ぶりなのだから。と、
人通りのなさそうな道を選んでの散歩を交換条件に。

「心当たりって、透明の?」

トンっと靴音をさせて立ち止まってから、彼女は振り向いて聞き返した。

何故か、思いもよらないことを訊かれたとでもいうような、
不思議そうな顔で、私を見返し、しばらく考え込むようなふうだった。
そして、ふっと何か思いついたのか、クスリと、小さく一つ笑い、


「そうねぇ…」

つぶやきながらまた前を向き、空を見上げながら、
そのまま彼女は、また歩き出してしまった。

そのまま、彼女がどこか遠く、私の手の届かない、
決して行けないような遠くへ、行ってしまうような気がして、
私は慌てて後を追った。


追いついて、思わず掴んだ彼女の腕は、
やっぱり少し、冷たい気がした。





彼女の部屋のカーテンは、閉ざされたままだった。
「コーヒーでいい?」
訊きながら彼女は、やかんに火をかけ、カップを取り出す。

「あ、ごめん、そっちは散らかったままだから、
 テーブルの方、座ってもらえる?」

彼女の机の上には、いくつものメモと、
開いたまま、スクリーンセイバーが作動している、ノートパソコン。
既に見慣れた、彼女の部屋、彼女が彼女の世界を作りだす、机。
彼女が、彼女の世界を現す空間。


「書きかけなんだけどさ、家に閉じこもりっぱなしで息詰まっちゃって。」

買い込んできたお茶菓子を広げながら、彼女が言う。

「あたしの、最後の渾身の作になる予定。」

嬉しそうに笑いながら、彼女は言い、
驚いて聞き返そうとする私を、
やかんの、湯の沸いた音が、阻んだ。





チョコレートやクッキーをつまみ、コーヒーを飲んで、
何を話すわけでもなく、彼女はくつろぎ、満足そうだった。

私は、ただ、いや増しに募る不安に、怯えながら、
カップの中の黒い水面が映す天井を、見るともなしに眺めていた。

日が傾き、カーテン越しに、オレンジ色の西日が注ぐ。
カップが冷めてゆくにつれ、部屋の中に漂っていた
コーヒーの香りも感じられなくなってゆく。


ふぅ。と彼女が、カップをテーブルに置いて、
満足そうに溜息をついた。
そして、少し上目遣いに私を見て、
ゆっくりと、次第に早口に話し出した。

「あのね、信じてもらえないかもしれないけれど、
 っていうか、現状のこの段階で、普通信じらんない事だけど。
 たぶん、あたしこのまま、そのうち消えちゃうんだと思うの。

 あのね、でも、もし、あたしが消えちゃっても、驚かないでね。
 この体が消えて無くなっても、心配したりしないでね。
 ごめんね、わがままだけれど、あたしは、あたしの全部を出し切ってみたいの。
 あたしの中にある何もかもを、絞り出してでも全部現してみたいの。
 だから、あたしがそうしたいんだから、それで消えてしまっても、
 それであたしの全部が無くなって消えても、仕方がないじゃない?」

彼女が何を言っているのか、わからなかった。
けれど、彼女に何が起こっているのか、わかりかけた気がした。
不安は募り、少しずつ、絶望に似た恐怖に変わる。

「ね?私がそうしたいんだから、仕方がないじゃない?」

言い聞かせるように、哀願するように、彼女は言った。


あぁもう私には・・・いいや、そもそもの始めから、
私には、どうすることもできないことなのだ、と、
ただ冷たいものが、背筋から全身へと下っていった。


「…ね?」

黙り込む私を、彼女がのぞき込む。
私は、顔を合わせることができなかったけれど、
彼女が真剣な表情をしているだろう事も、
心から、私を心配しているのだということも、
嫌でもわかった。

「ごめんね。」

彼女が俯く気配がした。

「・・・でも、仕方がないんでしょう?」

やっとの思いで、声を出して、顔を上げた。
彼女が、不安そうにこちらを見ている。
溜息と、苦笑を混じらせて、強がりだと自覚しながら続ける。


「何も言われず、行かれなくて良かった。」





その後彼女は、制作中の彼女の世界を、私に見せてくれた。
彼女の全てを注いだ、彼女自身の世界。
隅々にまで、彼女が詰まった世界。

「ね?これだけの物が完成するんだったら、
 その後あたしが、なんにも残らなくったって、
 仕方がないと思わない?」

「自分でそう言うこといわなきゃ、もっといいのにね。」


自慢そうに話す彼女。いつものように、応じる私。
これで最後かもしれない、彼女との時間。
いつものような、彼女と私の時間。



「毎晩電話して良い?
 それで、電話が途切れたら、ここに来て。
 あたしが創りあげた物を、見に来て。
 せっかく作っても、誰にも見てもらえないんじゃ、
 さすがに淋しいもの。」

よろしくね。と言って、彼女は私に合い鍵を渡した。
荷物とか、他のことも全部任せるからね。と彼女。
そうやって、面倒くさがって。と私が苦笑すると、
いいじゃない、お願い。と、彼女は嬉しそうに笑った。

彼女の笑顔に、玄関のフローリングが透けて、
私は、おやすみと言って、彼女と別れた。





彼女からの電話は、数日間あった。
彼女の声を聞く度に、私は安堵し、
作業の進み具合を聞いては、不安に襲われた。

彼女の声も、次第に曖昧に遠のいてゆく。
けれど彼女は、決まって嬉しそうに言うのだ。
もうすぐ、後少しで完成する、と。
私は、その声を聞き、彼女と喜びを共有しながら、
徐々に迫る不安に、押しつぶされるような思いだった。

 
彼女からの最後の電話は、ワンコールで切れた。
上着も持たず、携帯を掴み、彼女の部屋の鍵を握りしめ、
私は、堪らず走り出した。

夜風の寒さに、指先が凍える。足の感覚が薄れてゆく。
転びそうになりながら、とにかく走って、
辿り着いた部屋に、彼女はやはりいなかった。

カーテンの開いた窓。
スタンドライト以外の明かりの消えた部屋。
ノートパソコンが、わずかに唸るような音を上げている。
画面は、彼女の打ち込んでいたファイルを表示したまま。
彼女の残したものを、私に見せようとするように、
彼女の世界が、開かれていた。


「よかったね、さようなら。」


そっと呟いて、一つ深呼吸をしてから、
私は彼女のパソコンに向かった。
よかったね、よかったね。
涙を止めることはできなかったけれど、
本当に心から、そう思った。


彼女の世界、彼女の夢、
彼女の残した、彼女の全て。


よかったね、さようなら

ありがとう。と聞こえた、遠い彼女の声は、
自分自身への慰めのための幻聴でしかなかったかもしれない。
けれど、それでも、よかったね、よかったね。と、
繰り返しながら、私は彼女の世界を見ていった。




それからしばらくは、彼女との約束どおり、
彼女の物全てを片付けることに没頭した。

彼女の持ち物全て、一つ一つが、
彼女自身を現すようで。
一つ一つに、彼女が息づいているようで、
作業は遅々として進まなかった。


片づけが終わってからの週末は、彼女のお気に入りのカフェで過ごした。
最後に彼女が座った席で、彼女が大事そうに飲んでいたココアを頼んで、
彼女のノートパソコンで、彼女の世界を見た。
そうして、私の時間は流れていった。
彼女のいない私の時間が、流れ出した。



こうして彼女は、私の前から消え、
そうして私は、彼女を失い、彼女の世界を得た。

青空と、雲の影の透けて見える、
彼女の笑顔が、私の記憶から少しずつ薄れ、
ただ、彼女の世界だけが色あせることなく残った。

私は今も、空を見上げては、彼女を思いだし、
けれど、彼女の姿を描くことができずに、
彼女の世界に、想いを馳せている。


あれからどれだけ時間が過ぎても、空と、雲の影は、消えかけた彼女が、
笑いながら振り向いたあのときと、変わらずに、静かに、静かに流れていた。










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