心の病








左胸、心臓の辺りが、きしきしと痛む。
しばらく様子を見ていたのだけれど、どうにも痛みが治まらない。
なんだか体も重くなっていく気がして、午後の仕事を休んで、とうとう病院に行った。


「孤独耐性拒否発作ですね。」

と、聞いたこともない病名を告げられた。

「今、会いたいと思う人はいますか?」

「は?」

「会いたい人です。いませんか?」

「いえ、別に…」

「あぁ、それはいけませんね。」

俯いて、カルテになにやら書きながら、やっぱり。とでも言いたそうな顔で医師は言う。
馬鹿にされているようだれど、医師の顔は真面目だった。
それが余計、失礼なことに思えた。

「あの、それ、病気と何か関係が…?」

「えぇ、あなたの病気はですね。簡単に言うと、
 孤独であることが長すぎて、神経に余計な負荷がかかっているのですよ。
 人間というのは、他人と接することで、自分の負担を軽減するように出来ていましてね、
 その軽減が、うまくできないと、精神や神経に負荷がかかってしまうんです。」

医師に丁寧に説明されると、もっともらしく聞こえる。
つまり精神的な原因で、心臓に負荷がかかっていたということだろうか。

「一人でいるのが楽だと思っていたり、
 人に弱いところを見せないようにしていたり、
 誰かの世話にならないようにしていませんか。

 結構あるんですよ。そうやって強く生きている方に。
 そういう方は、何でも自分で出来てしまうから、
 本来、孤独であることは人間の姿としては不自然なのに、
 身体症状が出るまで気付かれないんですよね。」

先生は、真っ直ぐに目を見て、やさしく説明してくれた。

「一応、薬も出しておきますが、それよりも、生活改善の方が効果的ですよ。
 まずは、近くの人に声をかけてみたり、お友達に電話をしてみましょう。
 人と話をしているときは、楽になるはずですから。」

「はぁ。」

わかったような、わからないような、なんだか納得しきらないのだけれど、
先生の言っていることは本当のように聞こえて、
ひどく曖昧な返事をして、一応頭を下げた。


「お大事に。」

という声を聞きながら、診察中は胸の痛みも治まっていたことに気付いた。



買い物をして、家に帰った。
荷物を置いて、覚えずため息をつく。
人と会うことで、無意識に張っていた気が、やはり無意識にゆるむ。

きしきしと、胸が痛んだ。

気持ちは楽になったのに、体は反発するらしい。
このままふて寝してしまおうかとも思ったけれど、
仕事を休んでまで医者に行ったのだから、そうもいかない。

「えぇと…」

ほぼ着信専用になっている携帯電話のアドレス帳を、あてもなくスクロールする。
相手が友達といっても、用もないのに電話をするなんていう習慣はない。
仕事も、明日までは大丈夫なようにしてきたし、
第一、病院に行った日に会社の人に電話なんかしたら、余計な心配をかけるだけだ。

誰でもいいはずなのだけれど、誰に電話をしたらいいか、全くわからない。

なんだか、惨めだ。
このまま一人でいる方が、絶対楽だ。

きしきしと、痛みが増す。
きりきりと、締め付けるようになってくる。

ふと、医師の、優しく諭すような声を思い出す。
きしきしと、痛みは止まない。でも、一人でいたい。
けれど、これではまるで、このまま一人でいたら、私は、まともな人間ではないみたいだ。


アドレス帳をスクロールする。
何のことはない、しばらく会っていない旧友に、近況でも訊けばいい。
たまたま、仕事が早く上がったからとでも言えばいい…
どくん、どくんと鼓動が緊張を表す。
必死に言い訳を自分に言い聞かせながら、通話ボタンを押す。

トゥルル…

  もしもし
  もしもし?
  あぁ、ひさしぶり〜。めずらいしいね。どうしたの?
  あ、うん、なんでもないんだけどさ。元気?
  うん。相変わらず〜。そっちは?
  うーん。相変わらずなつもりなんだけどねぇ。
  どうかしたの?
  ちょっと調子悪くて医者行って来てさぁ。
  えぇ〜大丈夫?
  うん。大したことないんだけどさ。もっと人と関われみたいなこと言われて…
  なにそれ〜。あ、それで電話してきたの?
  そう。なんか、社会不適合者って感じだよね。
  あはは〜。そんなことないでしょ。仕事とかもちゃんとしてるんでしょ?
  うん。相変わらず。
  じゃ、大丈夫じゃん。

話すうちに、緊張は消えていく。
けれど、話が長くなるうちに、焦りが生まれてくる。
私は、何をしているんだろう。
用もないのに、長電話をして、これじゃまるで、まるで…

  そういえば、他のみんなとも会ってないね〜
  うん。…そうだね。
  同窓会とかないのかな?
  どうだろ?あれば通知が来るんじゃないかな。
  そうだよね。みんなにも会いたいなぁ…

…まるで私は、淋しいみたいじゃないか…


用のない電話。だから、自然と会話が途絶える。

  えぇと、じゃぁ、ともかく、お大事にね。
  あ、うん。ありがとう。
  じゃ、またね。
  うん。

また。と言われて、うん。と答える。
ただの挨拶のようなもので、そのまましばらく音信不通状態になっても、
お互いに、気にはしないだろう。
今までは、そうだった、けれど今度は、この次同じことが必要になったら、
私はこの「また」という言葉に頼ってしまうのだろう。
それがやけに、情けなかった。

惨めな気分になりながら、私は電話を切った。
泣きたいような気持ちで、横になる。
きしきしという痛みは、消えていて、こんなふうに感情に浸るのは、久しぶりだった。
けれど、痛みがある方が、まだましに思えた。



朝、目覚める。
上体を起こす。
きしきしと、胸が痛む。
昨日よりも、心なしか強く、少し息苦しい。
そして、なんだか虚しい。

どうして、一人でいることさえ出来ないのだろう。
ぼんやりと考えながら、テレビをつけた。

つい見入ってしまうと身支度が遅れるので、普段はつけないのだけれど、
朝のニュースや天気予報を伝える声に、胸の痛みがやわらぐ。
そういうふうに、出来ているんだなと、思うしかなかった。



「おはようございます。」

目に付いた顔に向けて、片っ端から挨拶をした。

「どうだったの?大丈夫?」

心配と、好奇心ともとれる質問に、曖昧な返事でかわしたくなるけれど、
その瞬間、心臓が痛む。

「えぇと、大したことはないんですけど、
 なんか、精神的なものらしくて、
 対人関係の指導されちゃいました。」

情けなく、曖昧に、へらへら笑って、
半分ごまかしながら言うと、痛みは消える。
情けなくて、泣きそうになりながら、
でも、ただ独りで痛みに耐えなければならないことも怖くて。

「へぇ〜そんな病気もあるんだぁ。」

先輩への報告を、別の人が横から聞く。

「じゃ、そういうことなら、
 柏田さんの一日も早い完治のためにっ」

言うが早いか立ち上がる。
「おーい。今夜空いてるヤツ挙手〜!」
止める間もなく、何人かが集まり出していた。

「あ〜あ。ったく、口実なんて何でもいいんだから。」

苦笑した先輩が私を見る。

「…おつかれさま。」

その一言が、もう逃げられないことを表しているようで、
私も同じ様な苦笑を返した。

ああいう人達は、今の私のようなことには決してならないんだろう。
本当は、その方が正常なんだろう。
そう思うと、なんだか諦めがついた。



その夜私は、一度も話したこともない人や、
挨拶程度に顔を合わせるだけだった人達に囲まれて過ごした。
心配してついてきてくれた先輩は、しばらく様子を見て、けれどすぐに帰った。
携帯のアドレス帳データは、倍以上に増えた。

いくつもの顔を憶えて、たくさんの名前を携帯に入力して、
けれど、ちっともそれが一致しないままだった。


「じゃぁ、カシちゃん、また来週やろう。来週。ねっ。」

二次会は、断った。
残った人達皆が、見送ってくれて、次の約束を迫る。
返事に困って、曖昧な愛想笑いを返す。
本当に、口実は何でもいいんだろうなと思った。

何でもいいのは、私も同じ。
少しだけ、アルコールを入れて、
虚しくなったり、情けなくなったりするのをごまかした。
一日、お節介な騒ぎ好きのおかげで、痛みは感じなかった。
本当は、こうあるべきなのかもしれないと、ちょっと思った。
そうやって、生きていく…そこまで考えて、大げさだと自嘲した。



痛みも感じず、気分も悪くはなく、家に帰る。
一日ぶりの自分の時間が、ちょっとだけ特別のようで、
帰ったらまず何をして、それからどうするか。
あれこれと考えながら機嫌良く帰った。

飲み会の余韻に浸って、痛みを押さえる。
慣れないことが出来た達成感で、情けなさも消える。
昼間は人と接して、夜は自分の時間。
使い分ければいい。両方のバランスをとればいい。
なんだ、平気じゃないかと、鼻歌混じりに家に入り、
帰り道で立てた計画通りに、テキパキと動く。
全部上手くいきそうで、安心した矢先、


ピルルル…


バックの中で、携帯が鳴った。
凍り付くように、ドキッとした。
上手くいっていた計画が、狂わされたようで嫌だった。
着信は、今日登録した名前。けれど顔は思い出せない。

どうして、放っておいてくれないんだろう。
さっきまで同じ場所にいて、明日また会社で会うのに、
どうしてこんな夜中に電話をする必要があるだろう。

恨めしげに眺めているうちに、着信音はメッセージ録音の案内に変わる。
ぷつっと小さな音がして、通話が切れた。
ほっとしていると、もう一度着信音が鳴る。

ピルルル…

泣きそうになりながら、携帯電話を放り出した。
部屋の隅の床を、小さな青い光が照らす。

遠く、くぐもった声が、小さく聞こえた。
ふっと携帯のライトが消える。
静かになった部屋で、床に転がった携帯を眺めて、

「もう、やだ…」

その場で仰向けになる。
何をしているんだろう。
私は、どうしてこんなふうにしているんだろう。

そして、胸が痛んだ。
きしきしと、きりきりと、少しずつ強まって、
締め上げるように。

私の中に、別の何かがいて、
その「何か」が、私の意志とは関係なく、
孤独を拒んでいるみたいだと思った。

きりきりと、咽せそうになるほど、痛みは強まった。
部屋の中は、静かになったまま。
ただ独りで、ただ痛くて、このまま独りで…

「いたいよぅ」


のろのろと起き上がると、携帯電話は変わらず部屋の隅で放り出されている。
飛びつくように拾い上げて、着信履歴を開く。
泣きそうなのを、必死に我慢した。
そこまで情けなくはなりたくなかった。

コール音が、緊張と痛みとを麻痺させる。


  もしもし?
  あ、柏木です。電話、すみませんでした。
  あぁ、うん。いいよいいよ。大丈夫?寝てたんじゃない?
  いえ、大丈夫です。


そっかぁという声が、間抜けなほど嬉しそうで、
遠くから、喧噪が聞こえて、相手の人の声も、その一部でしかなくて。
うつろに他愛ない話を聞いた。

ただ、痛みが引いたことにだけ安堵して。
電話を切ったあとに、淋しいのでも、悔しいのでも、痛いのでもなく、
ただどうにもならなくて、泣いて眠った。



日に日に、人に声をかけることに慣れていった。
家に帰ってからも、毎日のように電話をした。
独りになると、落ち着かなくなった。
あの痛みが襲って来そうで怖かった。

人といることが、当たり前になった。

ただ、孤独と痛みが怖くて、
生活の変化に疑問を持つ余裕もなかった。



「依存性代謝不全ですね…」

先生が、私を見て優しく言ってくれて、
やっと呼吸が落ち着く。

「お友達との交流は、されるようになったみたいですね。」

「はい。お薬も、ちゃんと。」

「たくさんの方と、仲良くされているのでしょう?」

「えぇ、おかげで胸の痛みは無くなりました。
 ね先生?私、治ったのでしょう?」

先生は、困ったように笑った。
私から視線を外し、カルテに書き込む。
私が、治ったかと訊いているのに。
私を見ないで、カルテにペンを走らせている。

鼓動が早まる。息が詰まるような気がする。焦りが押し寄せる。
病気が治ったから、先生はもう、私なんてどうでもいいのだろうか?

「先生?」

待ちきれなくて声をかけると、先生は顔を上げて、
やっぱり困ったように、けれど優しく笑ってくれて、
私は落ち着きを取り戻す。

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。
 そんなふうに必死になって誰も彼もを繋ぎ止めておこうとしなくても、
 あなたは独りになったりしませんから。」

「でも、いつも誰かと一緒でないと、
 また、胸が痛くなるかもしれないでしょう?
 独りでいたら、また痛くなるかも…」

ピルルル…

バックの中で携帯電話が鳴って、私は慌てて取り出した。
着信は…

「携帯電話は、医療機器に影響を与える怖れがありますので、
 電源を切って下さいね。入り口に書いてあるでしょう?」

やんわりと言って、先生が私の手から携帯を取り上げる。
心臓が跳ね上がった。呼吸が乱れる。
だって、だって先生が、人と話せと言ったから…


「どうやらあなたは、バランスが崩れてしまっているようですね。」

先生の優しい笑顔を見ていると、少し落ち着く。
独りじゃないから、落ち着く。

「人は、ずっと独りでいることも不自然ですが、
 常に誰も彼もに頼っているのも、正常ではありませんよ。
 今度は、もう少し独りでもいられるようになりましょうね。」


落ち着きなく不安そうにしている私の目を見て、医師は、
私の携帯電話の電源を切りながら、諭すように優しく言った。

 








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