こいぶみ





あなたを想って、泣きました。
泣いている時に、想ったのが、
あなたのことか、私自身のことか、
本当は、わからないのですけれど、
あなたを想って、泣きました。

ただ泣く意外に、何もする気になれなくて、
まだ日も暮れないうちから、布団にくるまり、
泣いたり、あなたを想ったり、我が身を嘆いたりしながら、
長い時間を、眠ることに費やしました。



あなたが悪いわけでは、ありません。
あなたは、悪くはないから問題なのです。

いつからでしょう?
あなたが、私から遠くなってしまったのは。

いつからでしょう?
あなたが、私が遅れても、歩くのを待ってくれなくなったのは。
道を歩く時に、手を繋いでもくれなくなったのは。
私などに構わずに、ほしいものばかりを探すようになったのは…

あなたは、悪くはないのです。
ただ、前を歩くあなたの背が、あんまり遠くて、
私は、もう、耐えられないように思いました。


それでも、あなたにしがみついて泣く私は、
あんまりにも情けなく、惨めで、
たちの悪いもののように思いましたので、
別れ際にも、泣くのだけは我慢して、
「また」という一言に、静かに頷くのが精一杯だったのです。



布団の中で、涙を流しながら、淋しい気持ちは、募ってゆきます。
布団の中で、涙を流すうちに、あなたへの気持ちは、ふやけてゆきます。

私は、本当のところ、
あなたにどうしてほしいのかさえ、
わからないのです。

ただ、なんにもする気になれなくて、
布団にくるまっていただけなのです。


夢うつつに、雨の降る音を聞きました。
夢の中で、あなたの声がよみがえり、私は、また少し泣きながら、
明日の朝起きる時間と、朝食とお弁当のメニューを考えていました。

そうして、こんなにも辛いのだから、やっぱりそれを、あなたに話さなければ。
それ以外には、この気持ちを解消する手はないだろうと、
そんなふうに思えましたので、明日の夜には、電話をしようと決めました。



昨日、夕方から寝ていましたので、
朝になるとすぐに、すっきりと目が覚めました。
気持ちは、まだ沈んだままで、
やっぱり夜になったら電話をしなければと思いました。

そう思うことで、少し楽になりましたので、
私は、やっと布団から出て起きあがり、
浴室で汗を流し、台所でお弁当を作りました。

あまり気分は良くなかったので、朝食は食べませんでしたが、
早くに起きて、料理をして、身支度もきちんと調えて、
規則正しい生活が、戻ったように思いました。

少し掠れたような、うっすらと白い朝の空を見るうちに、
だんだんと、心があなたから離れてゆきました。
こうして、何でもない日常を、規則正しく過ごしていたら、
あなたがいなくても、大丈夫と、そんな気持ちになってゆきました。


仕事は、いつもと同じ時間に、始まり、
いつものように進み、決められた時間にお昼休みになり、
同じように、夕方に終わりました。

その規則正しさが心地よくて、私の心は、もうすっかりあなたから離れていました。
読みたい本があったので、仕事場から本屋さんに向かいました。
そうして、本屋さんに付く頃には、あなたに電話をするつもりだったことどころか、
鞄の中に、携帯電話があるということさえ、私は忘れてしまっていたのです。



その夜、私は、夢を見ました。
夢の中で、私は、青い芋虫でした。
芋虫の私は、自分がいつか、
美しい蝶になるのだと信じていました。
そうして、空を見上げているうちに、
私の体が変わってゆくのを感じました。

「とうとう、蝶になるのだな。」
と、私は思いました。
しかし、私の体は、
緑とも青ともつかない様々な色が、
まだら模様に動くばかりで、
きれいな羽も、細く長い足も、
一向に出てくる気配がありません。

それでも、私は自分がこれから蝶になるのだと、
思い続けていました。
まだら模様になった私は、
だんだんとアゴや手足が尖り、
蝶などではなく、何か別の、
もっと強いものになっていました。

ああ、私は変わったのだ。
薄い布が覆い被さるように期待は消え、
私は絶望しました。
絶望しながら、私はもそもそと、
短く、先の尖った幾本もの足を動かし、
なにか、自分よりも弱いものを狩って食べようと、
動き出しました。

優雅に花の蜜を飲む、
あのストローのような口も、
私には与えられなかったからです。
私は、ただこの短く鋭い手足と、
尖ったアゴで手に入るものだけで、
満足しなければなりませんでした。

私は、青とも緑とも付かないまだら模様の、
ぶよぶよとした、長い体を引きずって、
どこへとも知れず、這ってゆきました。


不思議な夢を見ても、朝は同じ時間に目を覚ましました。
浴室で汗を流し、台所に立って、
気分がよければ朝食をとり、そうでなければお弁当だけ作って、
いつもと同じ時間に、私は出かけます。



こうして、私の規則正しい日々は、始まりました。
…戻ってきた。といえるのかもかもしれません。
毎日、同じ時間に仕事に行って、同じ時間に帰りました。

携帯電話は、使いませんので、鞄の中で忘れたままです。
時々は思い出すのですが、私にはもう、興味のないことです。
思い出しても、そのままにしておくだけでした。
あなたのことも、時々ふと思い出しても、そのままにしておくだけでした。

不思議な夢は、その後何度か見ましたが、
朝起きれば、やっぱり同じように、お弁当を作って、身支度をして出かけます。
そして、いつもと同じ時間に家に帰り、いつもと同じ時間に眠ります。
布団の中で泣くことも、あれ以来、なくなりました。


いまでは、もう、あの日、私が、
何を思って泣いていたのか、
なぜ泣いていたのかさえも、
私には、わからないのです。

私は、もう、あなたの顔も、
声も思い出せません。
目を瞑って浮かぶのは、ただ、あの、
青とも緑ともつかないまだらの、
ぶよぶよとして、蝶になりそこねた芋虫が、
短い手足で、どこへとも知れず、
這ってゆくさまだけなのです。





戻る