にゅうどうぐものしろ


「ひみつきちっひみつきちっ」

夏の炎天下の中を、空宇(くうう)ははなうた混じりに歩いていた。
じっとりと、鼻の頭に滴りそうに汗を浮かべて、それでも満面の笑顔である。
今年5歳になる空宇は、夏休みに入ってからのここ数日、
友達の所へ行くといって家を出ては、誰とも会わずに、ある場所で過ごしていた。

それが、「ひみつきち」というわけである。


空宇の住む町は、そう都会ではない。
はっきりと田舎と言うほどに不便でもないのだが、
山間に、静かに広がる町は、そう大きくもない。
自然にも恵まれ、子供の育つ環境としては、いいのかもしれない。

空宇が「ひみつきち」を見つけたのは、夏休みも間近に迫った7月の始め。
数人の友達と、山の中で遊んでいたときだ。
斜面に、小さな洞穴を見つけた。
ちょうど、空宇くらいの子供一人が入っていけるような大きさだ。
ただの洞穴なら、空宇の好奇心の働き方も、もっと賑やかな方に働き、
一緒にいた友達を呼び集めてから中に入ったのかもしれない。
だが、その洞穴は、奥の方が微かに光っていたのだ。

乳白色の、微かに様々な色を混ぜ合わせたような、やわらかな光。
その光に魅せられたように、空宇は洞穴の中に入っていった。

洞穴の中は、決して広くはなかったが、空宇一人が入るには十分な大きさだった。
薄暗い、濃灰色の岩の中を進むと、やわらかな光は強くなっていく。
洞穴の中は、ひんやりと涼しく、身体にまとわりつく汗が冷えていくのが感じられたが、
それが冷え切るよりも前に、不思議な暖かさが空宇を包んだ。

春の日溜まりのような、やわらかな日差しを思わせるぬくもり。
奥から照らす光は、強いものではなかったが、空宇が足を滑らせないよう、
足元を照らすには充分だった。

洞穴は、奇妙に一定の幅で続き、奥に進むのに苦労するようなことはなかった。
空宇は、片手を一方の壁につけ、ゆっくりと中に進んでいった。
光が、濃くなるにつれて、灰色だった洞穴の岩の色が白みを帯びてゆく。
半ば夢見心地になりながら、空宇はやがて、洞穴の奥、光の元と思われる所へ辿り着いた。

そこは、乳白色に光る岩で囲まれた、小さな部屋のような空間だった。
部屋のどの面の岩も平らで、部屋はいびつな多面体。
中央には、ひときわ大きな石柱が立っている。

引き寄せられるように、空宇は石柱に歩み寄り、そっと手を触れた。
辺りを照らす光と同じぬくもりが、手から全身へと伝わる。
昼下がりの微睡みのような、春の暖かな風のような、
不思議な安心感が、空宇を満たした。

そして、微笑み…

石柱の手を触れた、面に浮かぶ、穏やかな微笑みを、空宇は見た。
乳白色の、この光よりも強く。
辺りに満ちた、ぬくもりよりも確かに。
はっきりと、晴れ渡る空のような、全身で心から笑うような。
そんな、微笑みが、浮かんで消えた。

「いつか、そう、いつか…」

声が聞こえたと思った瞬間、辺りの光が弱まった。
脊柱に触れた手のひらから、岩の冷たさがしみてくる。
薄暗くなった、辺りを見回してから、
もう一度、あの微笑みが浮かんでは来ないかと、石柱を見つめる。

白いその石は、無機質に輝くばかりで、何も浮かんでは来なかった。
光が波を描くように、岩の色には変化があった。
真綿が乱雑に積み重なるように、曲線を描いて。

なおも岩を見つめ続ける空宇の耳に、微かに外からの声が聞こえた。
唐突に現実に戻された空宇は、入り口を振り返り、
そしてもう一度、別れのあいさつでもするように脊柱を省みて、洞穴をあとにした。

友人達の声がまだそう近くないことを確かめ、空宇は洞穴をでた。
自分だけの宝物を見つけたという優越感と、まだ残るあの不思議な感覚が消えてしまいそうで、
洞穴のことは誰にもいわなかった。


それから数日は、何事もなく過ぎた。
今年も夏休みは、楽しいことでいっぱいで、夏休みになるまでの間も、
空宇は思う存分に、遊んで過ごした。
それでも、あの笑顔を忘れることはできなかった。

ある日、ある、とてもよく晴れた日に、
誰かに呼ばれた気がして、空宇は空を見上げた。
真っ青な空に、白い、日の光を受けて輝く大きな雲が浮いていた。
その雲の中に、一瞬よぎる影のように、あの微笑みが…

気付いたときには、空宇は駆け出していた。
あの場所へ、それがあることを確かめに。
空に浮かぶ雲にのって、どこかへ行ってしまったのではないことを、確かめに。

「いつか」あの笑顔に会えることを、確かめに………

そして空宇は、その洞穴に通うようになった。
石室は、最初の時よりも薄暗く、石柱は、それ以来何も映し出しはしなかったが、
それでも空宇は、その石柱を飽きることなく見続けていた。

「いつか、そう、いつか…」

その声は、今はもう、空宇の頭の中だけで響いていた。



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