〜リセット・新たなる道を進むこと…


俺の目の前に、スイッチがある。
胸よりも少し低い位の高さの円柱の中央。
内側からの電光で、淡く緑色に光った、
半透明の、プラスチックのボタンだ。

「これを、押せばいいんだな?」
ボタンから目を離し、俺は、傍らの少女を振り返った。
「うん。押すだけだよ。」
からかうように、面白がるように笑みを浮かべながら少女は答える。
「そのボタンを押すだけで、やり直せるよ。」

ーリセットボタンー

今の状態をゼロに戻し、最初からやり直せる。
「何もかも、全部…」
俺の小さなつぶやきに、少女が微かに笑う。
俺は、もう一度、目の前のボタンに視線を戻した。

様々なしがらみ。
積み重なる疲労感。
俺は、理解されない。
認められない。
誰にも………

押し寄せる、孤独。
そして、導き出されるように湧く、絶望…

このままでは、潰れてしまう。
このままでは、崩れてしまう。
このままでは、進むことができない…

押しつぶすような沈黙の中で、
俺は、もう一度、今までのことを思い起こす。
この重荷を抱えたまま、この先どこまでゆけるのか。
その不安さえも、背に積み上げられて…

「このボタンを、押せば…」

やり直すことができる。
なにもかもを、始めから。
重荷を消して、また、始めることができる。

静かに、ボタンに手を伸ばすと、少女が口を開いた。
「そのボタンを押せば、やり直せるけど、」
からかうように、探るように、俺の目を、じっと見据えながら。
「どこから、やり直しになるんだろうね?」
からかうような、少女の笑顔…

どこ、から………?

「やり直したいトコが始まる頃から?
 それがうまくいかなくなる直前から?
 そもそも、生まれるところからとかね。」
少女が、俺に近付き、顔をのぞき込むように、首を傾げる。
「何をどうすべきかを覚えているのかな?
 何をやり直したかったのかを覚えているのかな?
 そもそも、いまここで、やり直すという作業をしたことを、
 覚えていられるのか。」
にこっと、満面の笑みを浮かべて、
楽しい話しを、他愛ない話を、するように。

「どんなふうに、やりなおせるんだろうね?」

こぼれるような笑顔を向けられて、
俺は、背筋が寒くなるのを感じた。

どこから、やり直すのか?
どんなふうに、やり直すのか?

「永遠に、同じことを繰り返す可能性も、あるってことか?」
かすれた声を絞り出して、少女に問いかける。
わずかにうわずった声を、他人事のように聞きながら、
変わらず明るい、少女の笑顔を見ながら。

「さぁね。でも、このままだともう続けられないから、
 やり直すしかないんでしょ?」
試すような目で、笑顔は崩さずに、少女は言った。
その笑顔に、追いつめられるように、
俺は、もう一度、目の前のボタンを見下ろす。

このままでは、潰れてしまう。
このままでは、崩れてしまう。
このままでは、進むことができない…
このままでは………

目を閉じて、ゆっくり、息を吸って、
ゆっくり、まぶたを上げ、少女を振り返ることもなく、俺は答えた。
「あぁ。俺は、このボタンを押す。」
自分の鼓動が、早く、強くなり、
現実味を失うかのように、意識が遠のくかのように。
奇妙に、夢の中を彷徨うような感覚で、
俺は、ボタンを押した。

静かに、四角いプラスチックが沈んで、
一瞬、中の電光が消え、赤い光に変わる。
ボタンの台座が、ゆっくりと足元に沈んでゆく様に、
息もできずに、俺は見入っていた。

「じゃ、そういうことで、がんばってね。」
円柱が、沈みきるのも待たずに、声がかかった。

ひどく明るい少女の声に、我に返り振り向く。
さっきまでと変わらない、からかうような笑顔。
台座が、沈みきるのが気配で分かった。
辺りも、俺自身にも、何ら変わった様子はない。

「何も起こらないじゃないか。」
少女を睨む。…が、それでもお構いなしで、
彼女の笑顔は変わらない。

「ん〜。そうでもないんだけどなぁ〜。」
もったいぶるように少女は、俺の足元を指し示した。

白い、線。

「なんだよ、これは。」
声を荒立てそうになるのをなんとか押さえ、
さらに少女を睨みながら、吐き捨てるように言った問いかけに、
けれど少女は、ほんとうに、ほんとうに、
楽しくて、嬉しくて、仕方がないといった笑顔で、
ただ一言の、答えを返した。

「スタートライン、だよ!」

言うが早いか、ぽぉーんと、その線を飛び越え、
少女が、駆け出す。

楽しそうに、
楽しそうに…
走って行って、振り返って、

「ここから、始められるよっ!」
離れたところから、けれども、最高の笑顔で。
励ますように、背中を押すように…
そして、大きく手を振って、
少女は、駆けていった

「なんだよ…」
笑みが、こぼれる。
「インチキじゃねぇか。」
それでも、その、足元の線を越せずに。
「…インチキじゃねぇか。」
少女の消えた彼方に、視線を向けながら、
それでも、なぜか、少し、ほんの少しだけ、
肩が、背中が、軽くなった気がして…

「そういうことかよっ!」
笑いながら叫んで、俺は、足元のラインの上に立った。

リセットボタン
スタートライン

なかったことにするのではなく、
『仕切り直す』ということ。

「そういうことかよ。」
満面の、極上の笑みを浮かべて、
俺は、足を出す。
ここから始める。その、第一歩を。

少しだけ、荷物が減ったような気がして、
少しだけ、問題が簡単になった気がして、
案外、簡単なことだったんじゃないかと。
少しだけ、軽くなった心で…



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