『セメテコノヨガアケルマデハ』
実際は、いっそ死んでしまった方が楽だと、 きっと誰もが知っている。 けれど、それでも生きている方が正しいのだと、 おそらく誰もが解っている。 この世界で生きることが、 どれほど辛く、難しくても… 「死にたい。」 空に向かってつぶやく。 しかし、反応はない。 聞いているのだということは、気配で分かる。 爆発音も、発砲音も少ない、静かな日で、 いつもよりも少しだけ、煙くない風は、 穏やかに退屈に吹き続けている。 「死にたい。」 彼がもう一度呟くと、彼女は立ち上がり、こちらを見た。 彼は彼女の顔を見ることもなく、同じ調子でもう一度続ける。 「もう、死にたい。」 彼女が動いた。 反射的に、彼の体は緊張で固まり、 首にかかった、彼女の手を握る。 「死にたいんじゃなかったのか?」 表情は変わらないまま、彼女は彼に言った。 やっぱりとでも言いたそうな響きを込めて。 「苦しまずに、死にたい。」 無気力に答える彼をしばし眺め、 彼女は黙って、彼から離れた。 彼女の背中を見送りながら、 彼はやっと握ったままだった手を開いた。 うっすらと汗ばみ、まだらに白くなった掌を。 ***** 戦場に出ることも、どうでも良いと思っていた。 誰が決めるのかは知らないが、 いつでも彼女は前線で、彼は後衛に配置された。 そして彼女は、なんとしても生き残ろうと必死で戦い、 彼はただ漫然と引き金を引き、弾を込め、 彼には興味の持ちようもない機械達の、発射ボタンを押して過ごした。 彼も彼女も、今のところは、生き続けていた。 「いつからこんな生活になったのか、覚えている?」 いつか彼女は彼に訊ねた。 彼女は誰にでもその問いを発した。 お陰で誰もが、彼女を変わり者と扱った。 いつでも誰もが、彼女の問いに黙って首を振り、 居心地悪そうに彼女の様子を窺った後、 そそくさと席を立つのだ。 「最初からずっと。」 彼は、なんのこともないように、彼女にそう答えた。 彼女の方は見ないで、美味くもない食事を続けながら。 諦め 絶望 不安… 暗くどんよりとしたものが、空気に染み込むように流れる。 人々が生きることに、意味などないのだと、 その一瞬に、気付いてしまったかのような 「あたしは、もっと前には、もっとマシな所にいた気がするんだ。 もっと良い事が、ちゃんとある所にいた気がするんだ。 いつからこうなったのかは、分からないけれど、そんな気がするんだ。」 それは、彼だけが聴いた、彼女の唯一の弱音で、 彼女の、生きる意味の全てだった。 彼が興味を持ったのは、彼女が変わり者であるというところだけだったが、 彼女もまた、彼の中に答えに近づく何かを見つけたかのように思い、 二人は、変わり者同士と周りから囁かれながら、 彼の退屈を紛らし、彼女の物思いを深めて日々を過ごした。 それは、砂煙を流す風が、ただ漫然と吹き続けるように、 確かなものも、意味のあるものも、何もないような、 ただ流れるだけの日々だった。 ***** 「あんたさぁ。」 彼女の背中を見送り、彼は声をかけずにいられなかった。 取り残されるような怯え。 失ってしまうかのような不安。 そんなものが、胸を掠めでもしたかのように、 彼は彼女を呼び止めた。 彼女が、無言で振り返る。 いつもよりも、煙くはない風。 けれど、その風が、彼女の姿を虚ろにするかのように、 何故か、心許なく、不確かに見える、彼女の姿。 「あんた、こんなトコに居なきゃいいじゃねぇか。」 居心地の悪さに耐えかねて、言葉を吐き捨て、 彼は彼女から目を逸らした。 彼女からの返事はなく、 ただ、遠ざかっていく足音が、微かに聞こえた。 いつから、こんな世界になったのか。 結局、その答えを、彼は最初から持たなかった。 彼女は、最後まで得られなかった。 ***** 風の強く、空は雲の重い、嫌な日だった。 あの日の彼女の、不確かな姿が、 何度か甦るような気がしていた。 それでも彼は、いつものように、 ただスイッチだけを押して過ごしていた。 知らせは、彼に伝えられたものではなかったが、 すぐに彼の耳に入った。 いつものことと、片付けられるはずだった。 他の者達と同じように、彼にもそう思えるはずだった。 けれど彼は、我知らず、走り出していた。 彼女が、体の半分近くを失って、それでもまだ、 辛うじて生きて、運び込まれた。 いつものことのはずだった。 傷つくこと、失うこと、死ぬ、こと。 自分以外に降りかかるのであれば、関係のないことのはずだった。 搬送係と医療チームの人混みの合間から見た彼女は、 力無く横たわり、けれど、その目だけは、 何か特別にさえ見える光を宿しているように見えた。 そう思うことだけが、彼の救いだったのかもしれない。 少なくとも、彼女が死ぬなどということは、 彼には想像もつかなかった。 暗い、湿ったような空気の部屋だった。 死臭が漂うような空間で、けれど彼女はしっかりと呼吸し、 闇を見据えるように目を開けていた。 他人のうめき声に、飲まれることもなく。 傷の痛みに、挫けることも無いかのように。 彼がベッドの横に立ち、なんと声をかけたものか躊躇していると、 彼女は、落ち着いた口振りで、静かに口を開いた。 「君が死にたくて、あたしは生きたかったはずなのにな…」 かすれた声が、すきま風のようで、彼はぞっとした。 彼女は、微かに、笑うように口を歪めて続ける。 「あたしが死にかけて、きみは相変わらずだ。」 辛うじて、彼に焦点を合わせた目。 その奥の、小さな、けれど確かな、光。 はっきりと背中の冷や汗を意識しながら、 彼は彼女から目を離すことができなかった。 「…帰りたかったなぁ。どこだか、分からないけれど、 いつのことかも、わからないけれど。 あの、きれいな、平和な世界に。 いつか、帰りたかったなぁ。」 微笑んで、彼女は、静かに涙を流した。 静かに、静かに、彼女は微笑んでいた。 「…あぁ。」 その瞳に、魅入られるように、 彼は膝をつき、そっと彼女に触れた。 「こんなに苦しんで、それでもまだ、 あんたは行きたいって言うのか?」 声を絞り出すと、泣いてしまいそうだった。 まるで、彼女にすがりついているような自分を情けなく思いながら、 彼は彼女を見守った。 「あぁ、生きたい。生きていたい。 こんなところで死なずに、生きていたいよ。」 彼女の視線が、虚空に移る。 何を見ているのか、分かるような気持ちにはなったが、 それは、彼には見えなかった。 「…君は………」 彼女が、視線を戻す。 「君は、こんなあたしを見ても、まだ、 死にたいなんて、思うのか?」 真っ直ぐに、彼を見て。 何かを、決意しようとするかのように。 試されているみたいだ。と、彼は思った。 彼女が、最期に何かを残すために、 試しているのだと、思った。 最期に…?彼女の、最期……… 「死にたい。」 真っ直ぐに、彼女の方を見て、答える。 けれど、視界には、彼女はほとんど入っていない。 それは、ただ、彼女のために発する言葉ではなく、 彼自身の内の答えだから。 「どうせなら、俺の方が死にたい。 あんなに必死に生きたあんたじゃなく、俺が死ねばいい。 俺のこの体を使ってでも、あんたが生きればいい。」 真っ直ぐに、彼女の方を見て。 けれど、何一つ視界に入れずに、前を向いて。 「はは…そうだな。 君の体をもらったら、あたしは生きられるかもしれないな。」 静かに、彼から視線を外し、 彼女は目を閉じた。 ひとつ、ゆっくりと呼吸をして、 「預けておくよ。」 真っ直ぐに、やさしく微笑んで、彼女は言った。 「君にもらった、あたしの体だ。 大事に使って、必ず生き残ってほしいな?」 いたずらっぽく微笑む。 敵わないな。 クシャクシャに顔を歪めながら、彼は思った。 生きることに対する意志が、決意が、そもそも違うのだ。 「それで、いつか君を見返してやるんだ。 いつか、世界中の人々が、あの、 平和できれいな世界に帰ってさ、笑って暮らすんだ。 そうして、君はあたしを思い出す。」 どこか、彼の知らない遠くを見ながら 「そしたらさ、『ほぅらみろ』って 言いに行ってやるよ。」 夢を見るように、彼女は続けた。 「それまで、その体は、預けておくよ。」 見たこともない、きれいな顔で、 聞いたことのない、夢を語って、 彼女は笑った。 彼は、上手く笑い返せなかった。 それでも彼女は、満足そうだった。 ***** 実際、生き延びることと、死んでしまうことと、 どちらが楽なのかなんて、彼には分からなかった。 けれど、それでも生きている方が正しいのだと、 彼は、思うことにした。 この世界で生きることが、 どれほど辛く、難しくても。 せめて、いつか本当に、 彼女の言った、あの世界が、 人々を迎え入れてくれるならば… 願うことを知って、 彼は、生きることを選んだ。