黄昏





「何もかもが儚くて
 この指をすり抜けて、失われていく。」

俯いたまま、でも、泣くのだけはやめて、
その人はつぶやいた。

色濃くなった陽光に、
溶けるような白い影が、今も消えない…





休日の夕方。
傾いた陽が朱に染まって、
空が、曖昧な色になる頃。

出かけるには、少し遅く、
帰るには、まだ早い。
そんな時間。

お客の少ない路線バスは、
まるで、異世界への入り口のようで…

現実逃避。
でも、確かに少し、
気持ちは楽になった。



一人、また一人と、
中心街を離れるにつれて、
バスの中から人が減ってゆく。

じわり、じわりと焦らすように、
夕日は、地面に沈みつつあった。

秋の見事に紅葉した銀杏のような山吹色の夕日が、
一点に集まるように、バスの中で反射するのを見つけたのは、
私と、その人以外のお客がいなくなって、
しばらくたってからだった。

黄昏の光は、目元から頬へ、
線を描いて反射している。


「…あの」

席が近かったことと、
黙って眺めているのが、なんだか悪くて、
思わず声をかけた。

黙ったまま、顔を上げたその人は、
本当に哀しそうな瞳でこちらを見た。

「あの、…どうか、なさったんですか………?」

言葉の最後は、ひどく力無くて、
消え入るように、バスの走る音にかき消された。



「…この、私の世界で」

静かに透き通る声。
引き込まれるように、染みわたるように、
悲しみを、込めて。

「この世界で、私から失われるものの、
 なんと多いことでしょう…?」

静かに、真っ直ぐに、
哀しい色をした瞳が私を見つめる。

白い肌。
金色の髪。
夕日に、溶けてしまいそうに、
ただ、静かに、そこに座る人。

「失われたものは、決して取り戻せず、
 手に持った砂が、指の間からこぼれるように、
 この手をすり抜けて失われていくもの達を、
 私は、ただ眺めているしかできないのです。」

「…何を………?」

淋しそうに、その人が俯いて、
独り言のように、呟く。

「けれど、仕方がないですね。
 そうであるように、私は彼らを作ったのですから。
 いつかは、私の手を離れていける力を、
 私が彼らに与え、彼らはそれを使ったのだから…」

「…かれ…ら………?」

心の、一番奥で、
私の中の、ただその一箇所だけで、
その人の言葉が、すとんと入り込んだ。

この人は…
この人は………

「全てはいつか、私から失われるでしょう。
 けれど私は、それでも創り続けるでしょう…」

どこか、心の奥底で、
何かがつながった。

あぁ、そうだ。
この人は…

………………………この人は
………なんだというのだろう…?



バスの中に、アナウンスが流れる。
沈黙を埋めるように。
私を、この不思議な人から、遠ざけるように。

一瞬我に返った私を見て、その人の表情は、
少し、和らいだように見えて、

「次ですか?」
「あ、はい。」

ふいに訊かれて、慌てて答えると、
その人は、ブザーを押してくれた。



「…あぁ。そうですね。
 あなたには、わからないでしょうね………」

静かに、静かに、申し訳なさそうに、
その人は言った。

その瞳が、あんまり哀しそうで、
哀しそうで…



ふと、その人の手が、私の頬に触れた。
哀しそうな瞳。

「あなたもまた、
 いつかは私のこの世界から失われるのだ。」

その、白い手は、透き通るように白い手は、
微かに、ひんやり冷たくて、
その人が、夕陽に溶けて消えてしまいそうだと思ったとき、
バスが止まった。

そっと微笑んで促すその人に、会釈だけして、
後ろ髪を引かれながらも、バスを降りた。
見送ったバス停から、
バスの中は見えなかった。



『私は、全てを失ってゆく』

必死に首を横に振っても、
それを否定する言葉は見つからない。

夕日は、もう沈んで、
今夜は、月も出ない。


「あなたの側に、いれたらよかった…」


声に出した分、空々しい言葉も、
あの人の指をすり抜けて、消えてゆくのだろう。





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