投影鏡


「鏡を見ていたら、腹が立った。」

そう言って、彼は、一日不機嫌でした。
朝から、仏頂面で。
とても不機嫌でした。
よく晴れた日だったのに、お日様にまで悪態をついていたので、
わたしは、彼を見ていて、困ってしまいました。

「どうして自分の顔を見て、不機嫌になるの?」

夜になっても、彼は仏頂面のままだったので、
一日中、わたしも嫌な気分だったので、
いつもよりおいしくないご飯を食べ終わった後に、わたしはききました。

「目が気にいらねぇ。鼻も。口も…」

彼はそうやって、自分の顔にあるものを、
ひとつひとつ全部挙げていきました。
どうして気に入らないのか、理由は一つもいいませんでした。

わたしは、彼の顔を好きだったから、
「でも、わたしは、あなたの顔すきだよ。」
と、いいたかったけれど、わたしが彼の顔を好きなことと、
彼が、彼の顔を気に入らないこととは、別のことなので、いいませんでした。

嫌なところを挙げ終わった彼は、また、ぶすっとした顔で黙ってしまいました。
わたしも困って、黙ってしまいました。
仏頂面のまま、おいしくなさそうにお茶を飲み終わると、
彼は「もう寝る」といって、部屋を出ていってしまいました。

わたしは、お茶がまだ残っていたし、彼が「おいで」と言わなかったので、
座ったまま、お茶を飲んでいました。


   がしゃん


大きな音がしました。
彼の声は聞こえなかったので、まだ仏頂面で、黙り込んだままなのだなと思いながら、
音のした方へ行ってみました。

姿見の鏡があった部屋に、彼と、たくさんの彼がいました。
彼の手はあかくなっていて、鏡の欠片ひとつひとつに、小さな彼がいて、
たくさんの、鏡の中の彼が、彼の周りを囲んでいました。

彼が、泣いてしまいそうに見えたので、わたしは、彼の近くに行きたいと思いました。
部屋に入っても、彼が何もいわないので、
わたしは、彼の方に歩いていきました。

わたしは、靴下をはいていなかったので、
小さく割れた鏡の中の彼は、簡単に私を切り裂きました。
けれど、今わたしが触れたいのは、鏡の中にいるのではない彼だったので、
鏡の中の彼のことは、無視しました。

「俺が気に入らなかったのは…」

床と、割れた鏡と、鏡の中の彼と、あかいいろを見ながら、
彼はつぶやきました。
わたしが近付いているのに、わたしのことは見ないままでした。

「鏡の中じゃなくて、ここにいる、俺自身だったんだな。」

彼の顔が、わたしの方を向きました。
でも、彼の目は、わたしを見ているようには見えませんでした。
それは、鏡と同じように、ただ、わたしを映しているだけなのだと思いました。

「こんな俺なんか、いなければいいんだな。」

彼の視線が、床に落ちて、赤くなったわたしの足の先をみて、
彼の目は、鏡から、彼自身の瞳に戻ったので、
わたしは少し安心して、そっと彼に手を伸ばしました。


けれど彼は、わたしの手が届くより前に、鏡の中に入ってしまいました。


一番大きな鏡の欠片に入った彼が、手を伸ばしました。
けれどわたしは、鏡の外で暮らしていたかったので、
黙ったまま首を振ると、その手も、鏡の中に消えてしまいました。

彼の入ってしまった鏡を拾い上げて、中をのぞくと、
鏡の中の彼と目が合いました。

彼は、やっと、わたしに笑いかけてくれたので、
わたしは、嬉しくなって、そっと鏡の欠片を抱きしめました。
鏡の欠片は、ひんやりと冷たくて、
もう少し、暖かければいいのになと思いながら、その日は眠りました。

明日、もし、晴れたら。彼は、鏡の中から、
明日は、お日様にも笑ってあげられると思います。



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